山内志朗:私にとっては、そして哲学にとっても、「存在とは何か」という、どうしようもない意味がなさそうな問いです。「存在とは何か」という問いが形而上学の根本問題である。しかし、「存在」とは、誰もが分かっていて、自明でありしかも空虚な問いに見える。「家に帰ったら夕ご飯は存在するか」を考える人はいても、夕方帰宅途中の会社員が、「夕ご飯」についてその「存在」を考えて、存在するとかは何かを考えることはありそうにもない。つまりい、「存在とは何か」というのは空虚であると同時に、何を考えたらよいのか分からない問いである。問いの形をしていても、どんな言葉を出せば答えになるのか分からない、疑似問題である。ということは、求められているのは、問いの答えではなくて、「問いとはそもそも何か」「問いに対する答えが答えの条件を満たすためには何が与えられていなければならないのか」を考えるのが、大事なところなのだ。つまり、「存在とは何か」という問いに対して、求められているのは「問いの答え」ではなく、問うこととは何か、言葉として問うていても、問いの形に騙されてはいけない、ということなのだ。それがハイデガーの『存在と時間』の一つの教訓だった。私には、その本で書かれていた、現存在や世界内存在ちった概念は、心に傷跡を作らなかったが、問いの様々な形態と、問いにおいて重要なのは。答えではない、ということを教わった。だから、「人生の目的とは何か」「幸せとは何か」という問いにおいても一番重要なのは答えではないということを習った。