川原繁人:「日本語は美しい」というような言明に関して、少なくても言語学的な根拠はありません。同様に、「日本語は非論理的で文章を書くのに適さない」というような自虐的な意見も聞かれますが、これも間違っていると思います。一般的に言って、言語に対して「美しい」とか「(非)論理的だ」というような価値判断を持ち込むことは危険です。と言いますのも、「ある言語がXXを持っているから美しい」とすると「XXを持っていない言語は美しくない」ということになってしまいます。すると、後者の言語への差別につながります。言語への差別はその言語を話している人たちへの差別につながりかねません。
「日本語は美しい」と自国の言語に誇りを持つこと自体は悪いことではありませんが、そのように思うのであれば「他の言語も美しいけど」という注釈を常に念頭においておくべきでしょう。
日本では、東京方言を「標準語」として、他の方言を「非標準語」とすることがありますが、これはあくまで政治的なラベルであって、東京方言が他の方言よりも優れているという言語学的な根拠はありません。東京方言以外の言語を話す人に対して「なまっている」といういうと、どことなくネガティブな意味を含むのも悲しいことです。ですから、私自身は「共通語」や「東京方言」といった表現の方を好みます。多くの言語学者がそう思っていると思います。
総じて言いますと、人間言語はどの言語も素晴らしいものであり、人類の財産なのです。ですから、特定の言語が優れていたり劣っていたりということはありません。最近、橋爪大三郎先生の『はじめての構造主義』を読み直していたら、この思想はレヴィストロースが明確に打ち出したもののようですね。「未開の人間」と思われていた人たちの習慣が、実は非常に高度に数学的に理にかなったものであることが発見された、ということです。どの人間もどの言語も同様に素晴らしい、という思想は現代言語学の根幹のひとつですが、レヴィストロースの貢献は大きかったのでしょうね。