中林真幸:描かれる世界観の好き嫌いを尋ねているのではなく,より多くの読者に訴求する技能,工夫について尋ねているのだと解して回答します。一つには,優れた書き手であるだけでなく,優れた読み手としても研鑽を積んでいらっしゃることが大きいと思います。村上さんは優れた翻訳家でもありますが,それはつまり,物凄い精読を積み重ねていらっしゃるということです。私自身は,翻訳には,監訳という形で一度,関わったことがあるだけですが,共訳者が下訳してくれた上で点検するだけの監訳でも十分に大変でした。私と同世代の方なら,伊藤和夫先生の『英文解釈教室』や高橋善昭先生の『英文読解講座』で英語を勉強したのではないかと思いますが,一冊の本を翻訳するとは,一冊当たり,『英文解釈教室』や『英文読解講座』数冊分の分量の英語を,『英文解釈教室』や『英文読解講座』並みの精度,密度で読み進んで行くということです。その密度で精読をしていけば,様々な作家の世界観や話の作りが頭の中に積み上がっていくでしょう。優れた映画は過去の名作のオマージュを随所に埋め込んでいるものですが,作家の場合,埋め込む素材の引き出しの数は,精読した本の数で決まるはずです。翻訳を続けられている村上さんには,そういう引き出しが多いのではないでしょうか。 もう一つ,海外で人気があることの理由も,上記に関わると思っています。「役に立たない」と罵倒されることの多い日本の英語教育,たしかに,『英文解釈教室』や『英文読解講座』をいくら学習してもアメリカのレジ打ちの兄ちゃんと話す役には立ちません。関係詞を多用する文章なんてそもそも会話で使いませんから。しかし,英語で論文を書いている人,とくに人文社会科学系で書いている人なら分かるように,『英文解釈教室』や『英文読解講座』を完全に習得しておくと,英文和訳の逆算で,関係詞を多用する複雑な話や抽象的な話の英作文ができるようになります(ですので,日本の英語教育は英語でアナリスト・レポートや学術論文を書く人にはとても役に立っていると思います)。それができるようになると,日本語を書きながら,ここは英語に訳せないな(訳してもらうとすればよほど日本語の上手な人に意訳してもらわないとならないな),というところも自分で分かってきます。おそらく,村上さんは,lost in traslationが少ない日本語を書く技能にも長けていらっしゃるのではないでしょうか。(Read more)
高橋賢:私は村上春樹氏の作品を読んだことがないのでなぜ人気があるのかは分かりません。ただ,毎年ノーベル文学賞の発表のときにあれだけハルキストと呼ばれる人たちが熱狂するところをみると,ファンにとっては大変魅力的な作品を書かれるのだろうと思います。 質問者が村上春樹氏の作品を読んだ上でなぜあんなに人気があるのかわからない,という趣旨の質問であるとすれば,これは好みの問題ですよ,としか回答できません。また,もし私が村上春樹氏の作品を読んだことがある上で,なぜ人気があるのか,ということを説明したとしてもおそらく無意味でしょう。 芸術作品で万人に受けがよいもの,というのはあり得ない話です。文学作品が読み手の心に刺さるかどうか,というのは,大げさに言えば読み手のそれまでの生き様と係わってくると思うのです。そこに合う合わないがあるのは仕方のないことです。そしてその生き様というのは十人十色です。村上春樹氏に熱狂的なファンがいるということは,様々なバックグラウンドを持つ人々の心に刺さりやすい作品を書かれている,ということだと思います。(Read more)