佐藤愛:『旧約聖書』創世記の「バベルの塔」にあるように、言語がばらばらであることは人類にとって普遍的な悩みなのかもしれません。こちらのご質問は1.
文学作品における翻訳の問題、2. ノーベル文学賞の評価方法の問題に分けて考えてみたいと思います。
取りかかりやすい2の問題からいきましょう。
ノーベル文学賞では翻訳によって評価が変わるのでは?という疑問は確かに重要です。たとえば日本人最初のノーベル文学賞受賞者は川端康成(1968年)ですが、川端康成が受賞した背景について確認してみると面白いことが分かります。ノーベル賞は50年後に審査過程を公開することになっているので、近年になって受賞の背景を知ることができるようになりました。こちらの論文「川端康成とノーベル文学賞──スウェーデンアカデミー所収の参考資料をめぐって」(大木ひさよ)には、資料を受けて次のような分析が書かれています。
「川端康成は、ノーベル賞を取った後に「自分の受賞は、翻訳者のエドワード・サイデンステッカー氏の業績が大きい」と語っている。この発言から、翻訳者と作家の間には深い信頼関係があった、と言ってよいと思う。(中略)その翻訳の巧拙が大きく作品の価値を決めていたであろうことは確かである。」(57頁)
つまり質問者さんの予想通り、翻訳によって評価が大きく変わるであろうということです。これは、ノーベル賞の運営団体や審査機関がスウェーデンにあるということと関連しています。スウェーデン語もしくは近隣のヨーロッパ諸国の言語(英仏独語)に訳されていなければ審査する人々は読むことができないからです。ですがこうした状況を改善しようとする動きもあります。
2021年時点の記事ですが、ノーベル文学賞の受賞者についての偏りをなくそうとする動きについて、次のように書かれています。
「ノーベル文学賞は120年の歴史があり、これまで117人が受賞しています。その内訳を見てみると、7割以上はヨーロッパの人で、さらに女性の作家は全体の1割ちょっと、16人しかいません。こうした特定の地域への偏りや、男性優位への批判がもともと背景にあるのがノーベル文学賞です。それに加えて、選考にあたる学術団体「スウェーデン・アカデミー」の不祥事があってノーベル文学賞は、信頼回復のために3年前から古い体質を変えようと、改革を進めてきました。つまり、ヨーロッパ以外の地域の優れた作家を、男女関係なく評価しようという意識が今はあるというわけです。」
ということで、2の問題については質問者さんのおっしゃる通り翻訳の巧さに依存する部分が大きいであろうこと、ただし受賞者の偏りにかんしては改善の努力をしていくようだ、とお答えしたいと思います。
次に1の翻訳の問題に入ります。
質問者さんは「特定の言語でしか表せない表現があるのではないか」とおっしゃっています。まさにその通りだと思います。なぜなら、翻訳とは不完全なものだからです。
ですがそもそも、言語と言語のあいだの翻訳(日→英、英→日など)だけでなく、私たちが同一言語内でやりとりしている内容も不完全なものなのであり、コニュニケーションは互いのエンコーディングとデコーディングの努力によって初めて成立しているという見方があります。たとえば「ロマン・ヤコブソンのコミュニケーション論──言語の「転位」」(朝妻恵里子)にはこのようにあります。
「コミュニケーションにおいて、しばしば誤解が生じて相互理解に至らないのは、話し手も聞き手も言語の近接性に基づいてコード化・コード解読をおこなっているためである。」(206頁)
言葉が通じるとしばしば忘れてしまうのですが、そもそもやりとりにはお互いに大変な努力がいるのかもしれません。
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最後に補足として、翻訳者の言葉をご紹介したいと思います。アメリカ文学研究者で翻訳家の柴田元幸は翻訳のなかで原文の「声」を聞き取ろうとしているそうです。では「声」を聞いた翻訳とはどのようなものなのでしょうか。『知の技法』所収「翻訳──作品の声を聞く」に、ジョージ・D・ペインターの詩
“Meeting with a Double”の詩を訳した例(66, 67頁)があります。
原文:
When George began to climb all unawares
He saw a horrible face at the top of the stairs.
(…)
It was himself, oh, what a disgrace.
And soon they were standing face to face.
直訳:
ジョージが何も知らずに階段をのぼったとき
階段のてっぺんに恐ろしい顔が見えた.
(…)
それは彼自身だったのだ. おー, なんたる恥辱
そしてじきに彼らは顔を向き合わせて立っていた.
原文の「声」を聞く訳:
ジョージがかいだんをのぼったら
そこにでてきた こわいかお
(…)
なにをかくそう かれじしん
かおをみあわす かれとかれ
つまり原文の「声」とはこの場合、『マザー・グース』のように「いかにも聞き慣れた感じ」「子供のころ読んだおはなしみたいな感じ」であり、不気味さということです。
どうでしょうか。皆さんには原文の「声」が聞こえますでしょうか。
以上、1. と2. に分けて考えてみました。疑問が完全に氷解した、とはならないかもしれませんが今後翻訳について考えるヒントになれば幸いです。