「自分が個人として経験した知識」をある程度まで体系化したり、普遍化したり、一般化したりできる人(それが得意な人)がいる一方で、それが不得意な人や、そういうことをやらない人がいるのは確かです。
その違いといってもたった一つには決まらないと思いますが、恐らく「再現性に関心があるか」というのは大きな理由の一つになると思います。
「再現性に関心がある」というのは、自分がいま経験した知識を未来に備える材料にすると表現してもいいですし、未来に似たことが起きると思っているとも表現できます。
「再現性に関心がない」というのはその逆で、自分がいま経験したことを未来に備える材料にしようとは考えないということ。あるいはいま起きたことは、もう二度と起きない。似たようなことは起きないと思っているわけです。
「再現性に関心がある」というのは、経験値を体系化・普遍化するためのモチベーションになると思いますが、それとは別に「体系化・普遍化する力があるかどうか」という問題もあります。
経験知に限らず、何か知識を得たときに、その知識をただ丸ごと覚えることしかできない人は、体系化・普遍化することができません(当たり前ですけれど)。知識を丸ごと覚えるしかなくて、その知識が持つ意味や、その知識を適用できる別の場面や、少し条件を変えたときの知識の変化などを思い巡らすことができないなら、体系化・普遍化することは難しいでしょうね。
そのような体系化・普遍化・一般化というのは、日常生活の中でも、学校生活においてもたくさん学ぶ機会があります。ある程度は生まれつきの性格(理由を深く考える性格、応用例をたくさん考える性格)になるでしょうけれど、意識して訓練することも可能じゃないかと想像します。
自分にやってくる知識をどのようにかみ砕き、咀嚼し、消化して自分のものとするか。それは非常に大切なことですが、学習の場では、あまり表立って強調されないかもしれません。
たとえば、学校で勉強をしますよね。そのときに「いま先生がいった知識を自分の頭に覚え込ませるのが学習だ」のような学習観を持っている人は、知識を覚えることはできますが、それを深く考える訓練として学習を生かすことが難しいでしょう。
私は学ぶ場面において《自分の理解に関心を持つ》という態度が非常に重要であるとつねづね思っています。学校で勉強をするときに「私はいまの話を理解したかな?」「いまの話を理解したとしたら、そこから何がいえるのだろう」「いまの話を他の場面に適用できないだろうか?」のように考えるのは、《自分の理解に関心を持つ》態度に直結していると思います。
子供の頃から大人になるまで、私たちは無数の情報に接します。そしてその情報を自分なりに処理していきます。その積み重ねによって体系化・普遍化・一般化する能力が次第次第に積み重なっていくものだと思います。
その長い年月を「与えられた話を覚えるのが学習である」という態度で過ごすのと「いまの話はどういう意味だろうか。よく考えてみよう。私はいまの話を理解しているだろうか」という態度で過ごすのとでは、大きな違いが生まれてくると思います。
* * *
関連する読み物へリンクします。
◆《自分の理解に関心を持つ》(前編・後編)(結城浩ミニ文庫)
https://mm.hyuki.net/n/nca5303eac345
◆じっくり考えるコツ(学ぶときの心がけ)|結城浩
https://mm.hyuki.net/n/ne3876b404eec?magazine_key=m4e998a7b06c9
◆勉強が得意な生徒と苦手な生徒の違い(学ぶときの心がけ)|結城浩
https://mm.hyuki.net/n/nf7a5f26cc7e8?magazine_key=m4e998a7b06c9
◆体系的に理解するとはどういうことか(学ぶときの心がけ)|結城浩
https://mm.hyuki.net/n/nfaa405c3af5c?magazine_key=m4e998a7b06c9