小川仁志:こういう抽象的な概念に関する問いについては、まず各々の言葉を定義するところから始めなければならないでしょう。人によって定義が異なることが多いので、そこで議論がかみ合わなくなるからです。おそらくここで問われているのは、いずれも一般的な意味での本能と欲望についての話だと推測されます。そうすると、本能とは行動へと駆り立てる生物が生まれ持った性質ということになるでしょう。この場合の生物は人間を念頭に置いていますが、他の動物にも本能はありますし、フランスの哲学者ベルクソンにいわせると、植物にも本能があることになります。その意味では、生存のために何かを求めることだといっていいでしょう。これに対して欲望の方は、一般に欠けているものを満たしたいという感覚だといっていいと思います。そして本能と同様、それによって行動が駆り立てられるわけです。ちなみに、欲求という概念も同じような意味で使いますが、フランスの哲学者レヴィナスによると、欲求(besoin)が単に欠けているものを手に入れようとする気持ちであるのに対して、欲望(désir)は手に入れることのできないものを求め続ける気持ちだとして区別しています。したがって彼にとって他者という存在は、まさに欲望の対象になるのです。ほかにもフランス出身の思想家ジラールは、他者の模倣に欲望の本質を見ています。つまり、他者が持っているものを手に入れたくなる気持ちが欲望だというのです。このように、欲望とは必ずしも生物が生存のために必要とするものではなく、そこには社会的な要素も入ってきます。同じく行動を駆り立てる性質でありながらも、このあたりが本能と欲望の境界線であるといっていいのではないでしょうか。