東京藝術大学お嬢様部:写楽の描く役者の浮世絵は他の浮世絵師が描く「美化された」様式的なものではなく、写楽独自のデフォルメと迫真性が優っています。 今日の芸術の評価的にはそれが素晴らしいのですが、堀田甚兵衛という幕末の著述家が「東洲斎写楽といふ絵師の別風を書き顔のすまひのくせをよく書たれど、その艶色を破るにいたりて役者にいまれける」と書いているように、描かれた役者側からクレームが来ていたことが分かります。写楽の役者絵は美化された様式から外れているため、自分達がカッコよく見えないじゃないか、という批判です。 この絵を見れば一目瞭然ですが、女形とはいえ顔も骨格も完全に男性です。女形の俳優はこれを見て憤慨したことは想像に難くありません。普通は本当に女性のように美化して描くのが基本でしたから。 三代目佐野川市松ですが、首がとても太く鷲鼻で、全く女性らしくありません。役を超えた人間への迫真性を感じるのは現代人だからであり、彼らからすれば営業妨害でしかないでしょう。 役者絵は当時のドル箱商品ですし、その対象たる歌舞伎役者との縁や評価は版元も大切にしなければなりません。ですから蔦屋も写楽も早々に方針転換をします。 三代目市川高麗蔵の亀屋忠兵衛と初代中山富三郎の新町のけいせい梅川、という作品ですが、とにかく最初期の作品のインパクトはありません。このようになり写楽はワンオブゼムに落ち着き、10ヶ月の画業を終えることになります。 まとめ 現代風に替えると、期待の新星として大手でデビューしたが有力団体からのクレームを受けてビビり散らかし、版元の圧で画風を変えるも「こんなはずじゃなかった」と言って自ら去った、という感じでしょう。写楽の中の人は能楽師で身分は低いものの武士ですし、町人や歌舞伎役者風情にあれこれ批評されるのが嫌になったのではと推測します。商業的なところは蔦屋が全部やっており、写楽はマネジメントには直接関わってないはずです。 打ち切りになって描くことを続けさせられなかった、という意見もありますが、終盤の作品は明らかなミスも目立ちますし線もしょぼく、完全に「やる気がない」ので、自らやめたというのが実態だと思います。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ukiyoeart/78/0/78_709/_pdf/-char/ja https://www.jstage.jst.go.jp 当時の写楽の評価についての論考ですが、贔屓筋からの批判や出版差し止め(あるいは短期の勾留まで)といった大事が起きていたことが分かります。嫌気がさしたのでしょう。(더 읽기)