私にとってエルゴード仮説(定理?)は鬼門なんです。どう考えてもまともな提案なのに、エルゴード性が失われる(かもしれない)からだめだ、統計力学の大原則を知らないのか、とか何とか言われて言い返せなかった経験が何べんもあるからです。どういうことだかちょっと聞いてもらえますか? きっと専門的になってしまうと思います。ごめんなさい。

量子色力学を数値シミュレーションで解く格子ゲージ理論では、虚時間をとることで量子論を定義する経路積分を統計力学の分配関数と同じ形に書き換えます。あとは統計物理で知られている確率的な方法(モンテカルロ法)を使って計算するわけです。ここでやっかいな問題があります。4次元空間の非可換ゲージ場は、トポロジー(巻きつき数)で分類できます。連続的な空間の場合です。これを格子にすると、厳密にはトポロジーは定義できなくなる。そりゃそうです。格子化すると連続変形が何だかわからなくなりますから。だから、格子理論では連続理論の一つの重要な性質を失っているわけです。

それはまあいいのですが、ここに大きな問題が持ち上がります。トポロジーはフェルミオンのもつカイラリティ(スピンが右巻きか左巻きかを区別する性質)と密接に結びついている。アティア・シンガーの指数定理といいます。これも連続空間の性質です。そうすると、トポロジーをちゃんと定義できなくなった格子理論では、カイラル対称性もちゃんと定義できなくなるという問題につながります。これは困るんです。カイラル対称性は、質量が自発的に生まれるときの根幹にある性質ですから。

さあどうしましょう。格子理論では原理的にトポロジーを定義できず、したがってカイラル対称性も定義できないのか。これをどうにかするために、格子上で「十分になめらかな」ゲージ場というものを考えます。素直に内挿すれば対応する連続空間が作られ、したがってトポロジーも定義できる。これならよさそうですね。シミュレーションもこうやることにしましょう。

ということになるんですが、ここでまた問題が出てきます。「十分なめらかな」ゲージ場は連続的に動かしていってもトポロジーが変わらない。そりゃそうです。トポロジーだから。だけど、量子論を定義する経路積分は、トポロジーを区別せずに全部足せと言っている。トポロジーの変わらないシミュレーションではエルゴード性が失われるではないか... 。ほら、エルゴード性です。「そんなこと言ったって、宇宙全体のトポロジーが1だろうが2だろうが、目の前の物理量を変えるわけないだろう。月の後ろ側でゲージ場が巻き付いていたら、それを測定できるとでも言うのか」。「いやいや、エルゴード性は大原則だ。絶対にゆずれない」。ほらね。水掛け論です。

すみません。私の愚痴になってしまいました。ご質問に戻りましょう。

エルゴード性があれば、無限の時間のうちに系はすべての状態をくまなく巡るので、統計力学での平均値の計算と同じ結果を与える。これが統計力学の基礎だ。そう言われることがあります。それに対する反論のことをおっしゃってるんですよね。「すべての状態」を巡るにはあまりに時間がかかりすぎる。そんなに待たなくても平衡状態というのがあらわれて、平均値は十分に安定して計算できるのだ。「典型性」と言われることがあります。エルゴード定理によらなくても統計力学は成り立っているという考えです。

「物理量が同じ値をとるもので同値類をとると...」。気持ちはわかるんですが、それだと統計力学における相空間の和を正当化する議論にはならないですよね。同値類のつくる相空間の体積に応じて重みをつけることになるわけですけど、それはどう正当化されるのかという問題です。

「必要な時間が測定時間より小さいものを物理量と定義すれば...」。私が正確に理解できているかどうかわかりませんが、おそらく「典型性」のことをおっしゃってるんだと思います。それが現代的な解釈なんだと思いますよ。

田崎晴明『統計力学I』はもう読まれましたでしょうか。とても詳しく書かれています。

今日のおまけは、ちょっと水掛け論についてお話ししてみたいと思います。

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